脱線話

奇をてらう訳でもなく。上手な言い回しや比喩も必要とせず。
ただあるがまま。素直な言葉だけで何かを伝えるのは、とても難しい。
伝えるではなく、記録だとしても。いったい何が残るのか。必要なのか。
捌け口でいいのではないか。色んな思考が頭の中でグルグルと回る。
正解も不正解も、どちちらでもよい。
正解な日もあれば、不正解な日もある。そもそも正解を目指してる訳でもない。
でも生きてれば、何かしら答えが欲しくなる。
答えのない答えを探すのが人生だと年々思うようになった。
だから正解でも不正解でも、どちらが正解なのか。どちらでもええやん。
そう堅苦しく考えず、自然体で。でも、その自然体すら分からない人が多い。
素直になれなくて、不自然なまま生きてきた結果。自然体がどうゆう体なのか分からない。
そう嘆く声を耳にした事もある。
それが自然体でいいのではないか?自然が素晴らしいと錯覚してるだけではないか。
自然とゆう言葉の魔力にはいつも感服する。
その言葉だけで健康だとか良い生き方だとかポジティブな意味しかないような錯覚に陥る。
そこまで皆を騙す?とは言い過ぎかもしれないが、素晴らしく愛おしい詐欺師な言葉だと思っている。

自然、自然体。それがほんとに素晴らしい?
添加物にまみれた人生ではないのか。僕は添加物にまみれてる。
子供の時から駄菓子で育ち、ジャンクフードは今でも食べる。動物性たんぱく質がないと生きていけないし。
煙草も吸う。お酒だけはやめたけど。墓まで持っていかんとアカン話もようさんあるし。
逆に添加物が無ければ今の人生はない。
自然は体感するもので、別に無理して求めるものじゃないような気がする。
もちろん、こいつ何言うてんねんと思う人もいてるだろうし。異論もある。

自然の言葉の裏表を理解したいだけなんです。
自然派の人の胡散臭さ。長生きしたいだけなのか、ウッド調の家に住みたいだけなのか。
森や山は素晴らしいけど、山はこちらに自然を押売りしない決して。
ただ受け取る側が、勝手に自然とゆうワードに飛びついてるだけ。
添加物にまみれた手で。いくら洗おうがその長年こびり付いた添加物は落ちないのに。
でもそんなフェイクナチュラル思考の人間とも共存していくのが世の中。
とっくに見破られてるのに、いつまでその偽物思考を抱えて生きていくんだろう。
添加物がなくなる世界は嫌だ。
何もかも潔白だとか息苦しい。オフホワイトなんかも言いたくない。滑ってしまうし。
ブラックもグレーもアイボリーもホワイトも。何もかも認めてしまえばええのに。

いったい何の話やねん。
これもいつもの事で。脱線ばかり。
しかしその脱線も仕事の場面で何度も助けられた。
自分自身が詐欺師ではないか、そう思う事も多々あったけど。
話術で人を貶めるなんかしたくない。笑える話や心が軽くなる話はしたい。

盲目の信者の行列には並びたくないだけなんですけどね。

 

夜にもう1回更新しま~~す。