散歩と時間と記憶

長女と夜コンビニまで散歩。
一緒に散歩する機会が減ったので、家からすぐそこまでのコンビニ散歩がとても楽しい。
ダラダラ話しながらお菓子買ったり、僕はタバコ買ったり。
帰り道も何だか楽しい。
他愛もない会話。笑顔でふたり歩く道。月が綺麗で。黄金の月について語ったり。
今日こんな事があったとか。少しお腹減ったとか。
ほんとに他愛もない会話。

長男と次女はどちらかと言うと奥さんに似てる。
長女だけが僕に似ている。似ていると言っても顔など外見ではなく。性格が似ている。
女子で僕に似ていると少し可哀そうに思えてくるけど。それはもう遅い。
がさつであったり、変なところに変なこだわりがあったり。
見ていて自分でも似ているなと思う事が多々ある。
そんな長女と二人で散歩している時間がとても貴重に思えてくる。
これから男親を嫌いなるだろうし。一緒にいれる時間は減るだろうと覚悟している。
自分も長女の歳くらいになると親と行動を共にする時間は、ほとんどなかった。
だから自分も親になった今「覚悟」している。
それが自然な行動だと思うから。
逆に子離れしていない親や、親離れしていない子供を見ると気持ち悪く感じる。
なんだかんだ書いても、コンビニまで5分もかからない散歩は楽しい。
小さな幸せ。
そんな小さな幸せをひとつひとつ積み重ねる。 
手のひらからこぼれないないよう大切に扱う。
そう感じれるようになったら、いつしかその小さな幸せが見えるようになった。
見えるようになったとは違うかもしれない。
感じれる心が体のどこかで躍動するのが分かるようになったのかもしれない。
ふと家に帰り着いた時にそんな事を思った。
だから忘れないよう書いておく。

いつか忘れてしまうだろう。
いつか誰かの記憶から消えてしまうだろう。
僕の誕生日を知っている人は何人いてるんだろう。
僕の事を覚えてくれる人は何人いてるだろう。
誰かの記憶に生きれるのだろうか。生きたいのだろうか。忘れて欲しいのだろうか。
忘れるのは簡単だろう。簡単に扱われる存在。粗末に扱われる時間。
それもどこかで仕方ないよと思う自分自身。
その心の傷はもう癒えましたか。あの時粗末に扱った君との時間とその傷跡。
未だにカサブタのままですか。もう傷跡すら残っていないでしょう。
いつからか「忘れる」って事が大きなテーマになっている。
「忘れる」からその先って何かあるんだろうか。そのまま無かった事になるんだろうか。
どこかの瞬間で思い出すきっかけは何だろうか。そもそも、そのキッカケ自体あるんだろうか。
懺悔するだけじゃ無意味なのに。
もう触れる事の出来ない存在と時間。遠い遠い過去に落ちていくだけ。深く暗い底。

 

明日は珍しく水曜が休み。
火曜日は1週間でも1番忙しい。だから火曜日は燃え尽きる勢いで仕事した。
明日休みやしね。
いい数字が出たので少しは報われた。